こんにちは、shirousagiです。
ドイツでは今年、2017年は10月に2つの祝日があります。
一つは10月3日「ドイツ統一の日」(Tag der deutschen Einheit)、そしてもう一つは10月31日の「宗教改革記念日」(Reformationstag)です。
ベルリンの壁の崩壊 1989年11月9日
東西ドイツの統一記念日は10月3日ですが、東西のドイツが統一するきっかけになった「ベルリンの壁」の崩壊は1989年11月9日です。
ドイツ、ベルリンの戦後
第二次世界大戦で敗戦国となったドイツがアメリカ合衆国、ソビエト連邦、イギリス、フランスの4カ国に分割支配されました。
当時、首都であったベルリンはこの4カ国の共同管理地域となっていましたが、東西の対立(冷戦)とともに 1949年にドイツは東西に別れ、ドイツ連邦共和国(西ドイツ=アメリカ、イギリス、フランスの支配地)とドイツ民主共和国(東ドイツ=ソ連の支配地)が成立しました。
ベルリンも東西に分割されました。
ベルリンの壁の登場
東西ベルリンは最初はそれでも行き来が自由だったのですが、東ベルリンから西ベルリンに人口が流出していくのを防ぐため、1961年8月31日東ベルリンは突然、東西ベルリンの境に壁を作りました。
これが「ベルリンの壁」です。
これにより、東西ベルリン市民はお互いの地へ行き来する事が出来なくなります。東西ドイツ国境には有刺鉄線が張り巡らされるなどされ、東ドイツ国民は自由に外国にいく事が出来なくなりました。
1961年から1989年の壁の崩壊までに東ドイツから西ドイツに逃亡しようとして命を落とした人は200人以上に登ります。(越境に失敗して逮捕された人も大勢います)
1989年、経済的にもかなりの苦境にあった東ヨーロッパでは、ハンガリーの国境の警備がゆるくなり、ハンガリー経由で東欧から西欧に逃亡する人が後を立たなくなりました。
東ドイツの空洞化
ハンガリーやポーランドでは改革が進みつつあったこの時、東ドイツの庶民の暮らしは一向によくならず、また、ハンガリーから西ドイツへの旅行が可能になった事から、ハンガリー経由で西ドイツに移る人がで始めます。その数は増加し、東ドイツは空洞化し始めます。
10月7日の東ドイツの建国記念日では、東ドイツ書記長のホーネッガー氏がその40周年を盛大に祝い、ソ連のゴルバチョフに支持を得ようとしました。ですが、ゴルバチョフはもはやホーネッガーを見下し、事実上、ホーネッガーは失脚します。
ベルリンの壁の崩壊
ホーネッガーは力をなくし、東ドイツ国民はハンガリーやチェコ経由で大量に西ドイツに移住。ベルリンの壁の意味がなくなり始めた時、東ドイツ中央委員会は11月9日に東ドイツ国民の外国への旅行の自由化などを決めた事を発表したのです。
その夜、この東ドイツ国民の旅行の規制緩和の発表が、ベルリンの壁を壊す事につながりました。
東西ドイツの統一 1990年10月3日
最初は、ベルリンの壁が崩壊して東西の2つのドイツが一つになるにはまだまだ時間がかかるだろう、と言われていました。
当時の首相コールも段階を踏んで統一する方針だったようです。
ところがベルリンの壁が崩壊してからというもの、東から西ドイツに移り住む人が後を立たず、このままでは東ドイツは本当に空洞になってしまう、と統一を急ぎました。
それは東ドイツの希望でもありました。
10月2日にアメリカ、ソ連、イギリス、フランスの4カ国と東西ドイツの計6カ国の外相会談で、統一後のドイツについて話合いが行われ、統一を急いだ東西ドイツはその翌日の10月3日に統一しました。
「統一」と言いますが、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東ドイツ(ドイツ民主共和国)を編入させた、というのが実際のところです。
現在のドイツの正式な国名は
ドイツ連邦共和国 Bundesrepublik Deutschland です。
上の写真はshirousagiが実際に統一後のベルリンに出かけて拾った「ベルリンの壁」のかけらです。
11月9日に崩壊してから、このベルリンの壁のかけらはベルリン土産としてブランデンブルク門近くのお土産屋などで売られていました。
売られていたかけらはカラフルなものが多く、いかにも「ベルリンの壁」でしたが、その壁は実際にはカラフルに色が塗られていたのは西ベルリン側だけで東ベルリン側の壁は灰色そのものでした。
それまで遠くからしか見れなかったブランデンブルク門に近寄り、門に触れ、その門の近くで崩れた壁を見て かけらを拾ったのは1990年の3月でした。
写真のかけらにも拾った時は、実は少しだけペイントの色が残っていたのです。27年もたった今は、その塗料はほとんど見えなくなりました。
あれから27年・・・・・です。 月日の立つのは早いですね。。
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